持明院縁起

持明院は平安後期に開創し、
持流一派の本山として今日に至ります。
古来、武田家、土屋家、京極家などの
大壇主をはじめ、全国の檀信徒各家の供養や
祈願を行っています。

開創

持明院は、1122年頃に持明房真誉大徳を開祖として興りました。真誉大徳の出自は不詳ですが、幼少期から誠実で知恵が豊かで、凡常の器ではなかったと伝わっています。
真誉大徳は高野山や京都で修行を積む中で、弘法大師空海の「御入定大事」の伝が失われつつあることを憂い、復興のために高野山に寺院を創建し、持明院流という流派を立ち上げられました。

真誉阿闍梨の伝歴

「字は持明房、名は真誉といい、延久元年(1069)に生まれたが、いずれの伝記を見るも姓氏郷貫は詳らかでなく、これを以って恐らく貴顕の出でないことと推察される。その質性は誠実、恵解儕輩にまさり、幼少より凡常の器ではなかった。幼少にして登山し、北室院の良禅検校に師事して密灌に沐し、且つ諸部の秘法を授けられ、又嘉承元年(1106)七月三十八歳の時、明算大徳を礼して庭儀灌頂を受けられる等、その前半生は中院流を学修せられた人である。
(中略)
なお、小坂坊と呼ぶはこの十輪院の時からで、これは院門前に小坂あるに依り名付けたもので、宝永年中に隆恭といえる住持が持明院へ双べ呼ぶことにしたのである。十輪院は甲斐信玄公に由緒があり、土屋家累代の霊牌を安置し、丸亀候二世に祈念を托して御供料若干を寄付せられたが、今の持明院に至りても、その先蹤を改めず勤められているとのことである。」

竹内崇峯『持明院流の伝承』(1995, 持明院)より抜粋

本尊

延命地蔵菩薩と梶取不動尊を本尊としており、通常はお前立をご参拝いただけます。
延命地蔵菩薩は長寿延命、子孫長久、六道救済やご供養(浄土への引導)にご利益があり、梶取不動尊は海上安全をはじめとする諸人風波の難除(開運厄除)、家内安全などにご利益があります。

「当院の本尊は、南谷にありし時は地蔵尊であって、六地藏の一つであったが、後十輪院へ移ってからは大師御作と伝えられる、十輪院の地蔵尊を本尊として安置したが、これは薩埵大師の入定を勧誘するが故に、引導地蔵と称したと伝えられている。
その外に梶取の不動尊があるが、この作者に就いて『文明院号記』には、大師が入唐の時に海上守護のために彫刻し給う尊像であると伝え、今に於いて諸人風波の難除を祈ると記されている。その他棟宇十箇所あり、宝塔・経蔵・鐘楼は禅信の建立とのことである。
なお、覚鑁上人登山後の最初の落着きの住坊であり、往古は小集所五ヶ寺院中の随一と称せられ、山内に於ける屈指の由緒ある寺院とされている。」
竹内崇峯『持明院流の伝承』(1995, 持明院)より抜粋

延命地蔵菩薩
(一般非公開)

梶取不動尊
(毎月13日・28日の護摩供にて開帳)

戦国武将との由縁

戦国時代、いつ命が絶えるともわからない情勢の中、人々は死後に仏の世界へ行きたいと願っていました。また、篤く年忌供養を行うことで、亡くなった人だけでなく供養する側の人も功徳を積むことができ、仏の世界に迎えられると信じられていました。持明院は高野山の中でも歴史が古い寺院で由緒もあったため、信仰を集めていたと伝わっています。

中でも、関ヶ原の合戦の直前に大津城に籠城して西軍を足止めした京極高次が、敗戦後に高野山に出奔した際に身を寄せたのが持明院でした。その後、家康に武勇を認められた高次は若狭小浜八万五千石の城主となり、以後も高野山へ帰依し供養を行いました。

お市の方(浅井長政夫人)像

重要文化財

浅井長政像

重要文化財

浅井久政像

重要文化財

持明院は、武田家、土屋家、京極家などの大壇主の供養や祈願を行ってきました。
また、浅井家や武田家の貴重な肖像画や、浅井久政や浅井長政からの礼状などの古文書も伝わっています。

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持明院年表

1069年(延久元年) 持明房真誉大徳 誕生
1106年(嘉承元年) 明算大徳から庭儀灌頂を受ける(持明房真誉大徳28歳)
1122年(保安3年) 仁和寺の寛助大僧正より広沢の密灌を受ける(持明房真誉大徳58歳)
受法後に高野山に戻り南谷に建立(持明院開創)